理解力がない人の思考
世に言う理解力がない(そういう風に思われている)人はどのような思考なのでしょうか?
会社で改革や変革に際し、色々と進まない場面に出くわしたときほとんどはなかなか主旨が伝わっていない現状があるのではないでしょうか?
このような時に、あいつが理解力低いから、とか、何度説明したらわかるんだ、とつい思いがちですが、嘆いてもプロジェクトそのものが進むわけではありません。
何故そうなのか、しっかりと考えて対応する方がまだ建設的ですよね。
私自身このような状況に何度も出くわしましたし、長く考えるテーマでした。何気にサーフィンしていると、なるほどな!と思える考え方に会えたので紹介します。
決してイコールではないのですが“理解”を“勉強”になぞらえて説明しますね。
私達が勉強を習うとき、あいうえお、数字と知識を習得していくわけですが、数学を勉強していくとき、勉強が出来ない人は大抵『方程式』でひっかかるそうです。
それまで(方程式を習うまで)は必ず文字は文字、数字は数字で習います。
アルファベットはA、B、C・・・・数字は1、2、3・・・
ところが方程式になったとき、はじめて、X=3といった、
(文字と数字が混じった概念)が入ってきます。
ここで“引っ掛かる人”はこう思うそうです・・・。
【Xは文字、3は数字、全く違うものが同じ“イコール”なはずがない!】
この違和感は理屈ではないそうです。同じものでないものがイコールという歪み・・・。もはやそれは倫理だと言ってました。
人が初めて認識する意識は“違う”という意識らしいです。“違う”という意識があるから、色々な認識ができるのだそうです。
簡単に説明すれば、‘’リンゴ”と“みかん”は違う。という意識。当たり前の意識です。リンゴをリンゴと認識するには、みかんを認識し、りんごとみかんの【違い】を認識しなければなりません。そうやって個別の認識を我々は学ぶのだそうです。
しかし、私達は成長に伴い新しい意識を認識します。
それは二つとも“フルーツ”だという事。共通の認識のもと便宜上の呼び名が生産性を求めて作られるのです。フルーツという包括する概念がその認識の範囲を広げるのです。
我々の世界は、生産性を求めようとするたび、発展しようとするたび、その概念を広げていきます。
典型的なものがPCの2進法です。PC上では全ての物が0、1であらわされるのです。
人は優秀になればなるほど、その包括した概念を作ります。
文明が進むほど、頭が良くなるほど、その包括した概念が多くなり、包括の範囲が大きくなるらしいのです。
方程式が解けない彼らは、まず最初の意識を包括することが受け入れられないのです。文字と数字が同じだという理論が成り立つなら、‘’なんでもありだ”ということになるのです。
理解が出来ない人の思考を考えるとき、その答えは難しいと思います。ただそのような思考で進めない事がわかると、何を伝えればいいのか少しヒントが見えるかもしれません。